大石膏室

 芸大の大石膏室は表がガラス張りになっていて大きな水槽だから魚がよく泳ぎ回る。石膏像は4年前あたりから急に溶け出して、少しずつ輪郭が曖昧になり、かつての神々はひっそり渇いた涙を流した。サモトラケのニケは涙を流さないかわりに羽根を毟る。メディチの霊廟は解体され、息を吹き返し、やがて遥かな時の束縛から解放された。魚たちは酸性の水の中で目を瞑り、いつかの悪夢に怯えながら、三つに殖えて四つに殖える。魚は震える。窓から差し込む日差しがぬらぬらとした鱗に反射してキラキラ輝いてみえる。僕は指輪を水槽の中に落っことしてしまって、もう誰も取り出すことができない。僕は水槽を眺めながら、冷めてしまったコーヒーを啜っている。ヨウ子が目覚めたのはその時だった。

——干上がった大地にトカゲの色が見たい。

 トカゲの子どもは自ら卵の殻を突き破って、この世界に顔を出す。僕は懐かしさを覚えて、思わず下を向いた。恐竜の足に踏みつぶされた小さな虫の呻き声。灰汁が鍋から吹き出して、トカゲは流される。僕はナイジェリアのジャングルで迷った時のことを思い出した。何処からか聞こえてくる子どもの声に導かれて池に辿り着いた時のこと。潰された虫は空をおしあげる。僕とヨウ子は目を合わせた。

 ヨウ子の唇は乾燥していて、ところどころヒビ割れていた。ラジオから90年代のj-popが聞こえてくる。僕はヨウ子の唇から自分の人指し指を離して、覆い被さるようにキスをした。ヨウ子の唇は何も言わずに僕の舌を受け入れて、僕らは水槽の外でとぐろを巻いた。世界の外側と内側が反転して、僕らは太陽系を飲み下してしまう。木星の味が濃くてとろりとしている。海王星は舌の上で跳ねる。僕らの舌は熱い。

 火星の海に辿り着いて、僕らと神々は海水浴をした。浜辺でビーチボール。ビーチボールは地球だ。ボールを上にあげる度に女神は油を僕にかけた。僕はしまいに油まみれになってしまって、ヨウ子はそんな僕をみて手を叩いて笑った。恥ずかしくなって、僕はヨウ子にも油をかけてやった。粘度の低い、サラサラとした油だった。ヨウ子は気持ち良さそうに油を浴びた。僕らは魚だった時のことを思い出しかけていた。

 不遜な魚は大石膏室の中で背伸びをしてゆうゆうと泳ぎ回る。僕らはクラムボンと語り合い、彼らが殺されて死にゆくのを缶ビールを飲みながら眺めていた。ヨウ子はサッポロの黒ラベルをうまそうに飲む。僕は自分のビールが無くなってしまうと、ヨウ子に頼み込んで彼女のビールを一口だけわけてもらった。炭酸が喉を通り過ぎて蒸発し、カラカラに渇いた喉は追い縋るように冷たい水を求める。僕はたまらなくなって、大石膏室の中をぐるっと一周泳ぎ回り、再びヨウ子の隣に腰を下ろした。ヨウ子はただただ笑っていた。

 ヨウ子は鞄の中から鉛筆を取り出して、カルトンに石膏像のデッサンをし始めた。僕はそれを横から眺めている。ヨウ子は描くのがとても早かったが、デッサンは少し狂っていた。画面に全体を収めようとするためにバランスがおかしくなっているのだ。しかも、ヨウ子は石膏像の欠損して無くなっている部分を想像で補って描こうとした。例えば、ヴィーナスの腕を描いたのだが、あまりにも長く描くものだから、蟹のお化けみたいになってしまっていた。ときおりクラムボンが蘇っては、ヨウ子のデッサンを冷やかしていった。

 デッサンが出来上がると、ヨウ子は飽きてしまったのか鉛筆を投げ出して、僕に抱きついてきた。僕は鉛筆を拾って、ヨウ子のカルトンに落書きをした。ヴィーナスの腕をさらに増やして蟹に近づけてゆくのだ。まずは両腕に二本ずつ腕を足すと興福寺の阿修羅像みたいになって、それが面白くってますます書き足してゆくと、蟹に近づいていったのは途中までで、どちらかというと蜘蛛に似ていった。クラムボンは僕らが描いたヴィーナスを気味悪がって、急いでどっかに消えてしまった。

 大石膏室の中が静まると、僕とヨウ子はじゃれ合って床の上を転げ回った。僕らはまだ自分の身体を殖やす決心がついていなかったので、お互いの身体を確認し合ったものの、それ以上は踏み込まなかった。石膏像はゆるやかに溶け出し、神々は呼吸を止める。やがて僕らの身体の輪郭が曖昧になるとき、神々は僕らを手放すだろう。桜の花びらが一枚、水槽の中に落ちる。微弱な波紋が僕らの不安と共鳴して、名も無い僕らを癒してゆく。

 大石膏室の扉が開いて、カルトンを手にした学生たちがぞろぞろと入ってくる。気がついた時にはもう彼らが空間を占拠していて、神々は動きを止めていた。僕らは学生に見つかってしまわないように、身をよじって身体を小さくした。僕らは鉛筆とカルトンを床に置いたままにしてしまったが、学生はそれには全く気を止めなかった。学生たちはカルトンイーゼルに立ててデッサンをしはじめて、お昼頃になると道具をそのままにして昼食をとりにいってしまった。

 僕とヨウ子は、小さくなったまま、学生たちが残したデッサンを見て回った。まだ大まかな線とグラデーションで捉えられた抽象的な形に過ぎなかったが、見て回るとそれぞれの描き方に違いがあって面白かった。ヴィーナスを描いているのもあったが、それはもちろん腕なんか描かれていなくて、僕らは声をあげて笑ってしまった。

 すると、神々たちが俄に身体の強張りを解いて、彼らも高らかに笑いはじめた。大石膏室の中が不遜な僕らの笑い声で満たされる。ゼウスなんかは手を叩いて笑ったので、クラムボンがびっくりして飛び上がり、目をまんまるにして僕らを眺めた。やがて堪えきれなくなったのか、クラムボンもかぷかぷ笑いだして、僕らは桜の花びらを仰いでどんちゃん騒いだ。僕はヨウ子の手をとって踊り、それに疲れると、溺れる程のキスを彼女に浴びせた。ヨウ子も負けじと溢れんばかりのキスを僕に浴びせた。穏やかな昼下がりだった。ラジオからは90年代のj-popが相も変わらず流れ続けていた。

 

(2015年4月19日)