パドス

 同級生の女の子に帽子を奪われて、パドスは方向感覚を失った。パドスは早く家に帰って牛の世話をしなければならなかったのに、家の方向がわからなくなってしまって、気がつくと山のほうまで来てしまっていた。山はパドスの住んでいる村から4kmも離れていて、不思議な怪物が出るから子どもは近づいてはならないことになっている。パドスはいますぐ山から離れて村に戻りたかったが、如何せんここがどこなのか見当がつかなかったし、どちらの方角へ行ったらいいのかわからなかった。しばらくふて腐れて歩いていると、流れの遅い青丹色をした川に出て、なんとなくその川に見覚えがあるような気がしたので、その川に沿って歩くことにした。

 川の流れはパドスの歩く速さよりも遅かった。パドスは川の流れに従って歩いていこうと思っていたのに、これでは川がパドスの歩きに従って流れているようである。川は濁っていて水面下はよくわからなかったが、ときおり骨張った魚が跳ねたり、ずる賢そうな白い鳥が小魚を攫いに来ていたりしていた。山の近くを流れているにしては、少し頼りない川である。しかし、川は折れずに真直ぐ続いている。パドスは目がとてもよかったが、それでも川の先までは全く知ることができなかった。

 そうして歩いていると、パドスは自分の帽子が川の中に落っこちているのを見つけた。帽子をとるには、川の中に入らなければならない。川の底は浅いように見えたが、細長い藻が水中を漂っている姿がなんとなく不気味で、パドスは少し怖かった。なんといってもここは不思議の怪物が住みつく山の近くなのだし、何が起きてもおかしくはない。或は、この川の中に怪物が潜んでいて、僕が川の中に入ってくるのを今か今かと待ち構えているのかもしれないのだ。

 そうは思ってみたものの、やっぱり帽子がなくては村に帰れないというのは分かりきったことだったので、パドスは恐怖心を押さえ込みながら、川の中へ入る決心をした。川に足を踏み入れると、足の裏がぬるっとした岩に触れる。パドスは慎重に足を一歩一歩踏み進めると、川の真ん中あたりで手を伸ばして、帽子を掴んだ——しかし、その時、足のバランスを崩して思いきり川の中へ倒れ込んでしまった。頭から足の先まで水を被り、足場が崩れて川の深い所に身体が沈み込む。藻が顔に張り付いて思わず水中で目を開けると、目の前を黒くて大きな影が通り過ぎた。それは全身がびっしり鱗で覆われていて、巨大なひれをで水中を切り裂くように泳いでいた。怪物だ! パドスは直観すると、踠きながら身体を起こし、急いで川岸に引き返した。幸いにも怪物が追ってくる気配はなかった。パドスは帽子を右手にしっかり握ったまま、川岸にへばって息をきらしていた。

 岸から再び川を覗いてみたが、川は頼りない川のままだった。流れは遅く、細長い藻がゆらゆら揺らめいている。パドスは呼吸を整えると、帽子を被って川を後にした。帽子を被ってからはなにもかもがうまくいき、15分もしないうちに村に辿り着くことができた。家に着いた時、日はもうとっくに暮れていて、牛の世話は終わってしまっていた。パドスは後でお母さんに呼び出されて、帰りが遅かったことをこっぴどく叱られた。帽子を奪われて山のほうまで行ってしまったことを説明したかったが、うまく言葉にできなくて、パドスはただ叱られるばかりだった。

 

(2015年4月18日)