不労所得で暮らしていることを留学生のヤン君にバレて、それからクラス中の信用を失った。食っていくのはギリギリだが、働いてないことは事実だ。決して遊んでいるわけではないし、見ようによっては働いているようにも見えるはずだが、バードウォッチングなんてやっぱり趣味の範疇だ。いや、それを本業している人はいるわけだからバードウォッチングそのものが趣味の範疇だというわけじゃなくて、あくまで僕のやっているバードウォッチングは趣味の範疇だということだ。鳥を見ることは楽しい。
  映画作りよりも楽しい。最近はヤン君と一緒に映画を作っているけれど、自分が監督じゃないから退屈だ。骨も折れる。ヤン君も監督じゃないから退屈なはずで、だから撮影現場では毎日眠たそうな顔をしているけれど、口では楽しいだなんて言ったりする。ヤン君はフィリピンからの留学生だ。だから信用できる。

ピー助

 話すのが好きなインコのピー助は飼い主の吉田さんが死んでからめっきり喋らなくなった。昔は好物の豆が欲しいときに「豆くれ、豆くれ」と言ったものだったのに、いまはうんともすんとも言わない。窓の外を見ては時折ため息をつくくらいのものだ。

 いま、ピー助に喋りかけるのは僕のお姉ちゃんだけで、そのお姉ちゃんも昔は毎日喋っていたのに、いまでは三日に一度になっている。僕の家には喋るロボットがあって、彼と話す方がよっぽど楽しいのだ。

ショウコさん

 ジャズをやっていることを教えたことがあったかしらとショウコさんが言ったので、聞いたことがありませんと言うと、当たり前じゃない今日初めて会ったんだからと返された。ショウコさんはジャズをやっている。それも、五年も前からだ。もともとはクラシックのピアニストをしていたらしい。それがジャズプレイヤーになった。旦那さんがドラマーだったからだ。

 ショウコさんの言う通り、ショウコさんと会うのはこれが初めてのことだったので、僕は当然ショウコさんの旦那さんのことは知らなかった。彼がドラマーだということを知ったのは、ショウコさんが言ったからで、もし、ショウコさんが嘘をついたのだとしても、僕はその嘘を見抜くことができなかっただろう。左手の薬指に指輪はなかった。ショウコさんはアルコールの強いカクテルを飲んだ。

 ピアニストだから指輪はしないのよ、というのがショウコさんの答えだった。たしかに、そう言われれば納得がいく。だけど、僕は嘘だと思いたかった。ショウコさんは結婚している。しかし、旦那さんはドラマーではない。

 さしずめ普通の会社員である。きっと食品加工会社の工場で働いている。ショウコさんと彼との出会いは、小学生の頃だ。そのくらいの規模がショウコさんには似合っている。

そびれて

 ユキちゃんに返しそびれたDVDを持って、川沿いの道を歩いていたら、いつのまにか菜の花畑に入り込んでいて、ミツバチが鼻先に止まった。小学生の頃からここを通っているのに、どうしてずっと気がつかなかったのだろう。菜の花はいつも教えてくれていたのに。ユキちゃんから借りたDVDは僕の家のプレイヤーでは再生できなかった。

 川の流れはできるだけゆっくりと。僕は歩調を合わせようとするけれど、先を行く自転車が見えなくなりそうで怖かった。地面を踏みしめる感覚が規則的に伝わってきて、ミツバチが鼻に止まっていることも、ほとんど忘れてしまいそうなくらい。菜の花は穏やかに揺れるけれど、風は頬に触れた、誰かの冷たい指先のようだ。

 ユキちゃんと喧嘩したのは、三日前のこと。大丈夫って言われても大丈夫じゃなくて、信じられないからと写真にハサミを挿れていた。小学生の頃は、ランドセルが隣り合うこともなかったけれど、セロハンテープがあればどうにかなったはずの未来も−−現在もだ。ユキちゃんの部屋のゴミ箱は黄緑色で、上から覗くと空気の厚みが見えた。いっそ空箱のDVDを借りてくればよかったけれど。

あかしお

 インターネットで見つけた海に行きたいと思って車を走らせて二時間、着いた海は赤い色に染まっていた。赤潮ってこういうことなのだろうか。ちがう気がするけれど、僕の中で生まれた言葉はそれだった。泳ぎ始めるとたいしたことはなかった。海は赤い色に染まっているだけで、本当にただそれだけだった。

 僕はくらげに刺されて、二週間寝込んだことがあったけれど、その時は40度の熱が出て大変だった。もう二度と海には行くまいと思った。三日経ったら忘れて、五年目の今日、再び海にきた。

 赤い海の水を手ですくうと、不思議と透明である。ここに赤い色素が溶けているとは到底思えないほどだ。塩辛いのはいつもの海のままだ。いつもの、と言ったって、五年前の味だから思い出せないはずなのに。

色の島

 色鉛筆で世界を描こうとする河北さんの、その画用紙はまだ白いままである。昨日までは描けていたはずの、鼻の長い像の絵も、黄色いチューリップの絵も、いまはもう描けない。もう一度それを描こうとすれば、線が別の夢を主張するだろう。例えば、それは湖に浮かぶ島の夢かもしれない。河北さんは島の上にいる。

 白い鳥が一羽飛んできて、島の楢に止まった。楢は鳥を支えるのでなく、彼女に寄り添っている。風がふわりと吹きすぎ、葉擦れが囁く。河北さんの描く線が、彼らを夢見ている。

 水色の線で、鳥の輪郭を縁取った。白い鳥である。歌うことを覚えたばかりの鳥である。楢の木は、大きな楽器になっていた。音はただそこにある。その音を、色鉛筆でなぞるだけだ。

 まだ白いままの画用紙に、全てはもう完成されている。世界はいまや色彩の宝箱だ。水色の線で縁取られた鳥が、楢の木から飛び立つ。そこにある音が湖の水面にうつしだされている。

せみのえび

 昨日、えびを殻付きで食べていたのだけど、咀嚼しているうちにセミを食べている気になってきた。セミなんて食べた事ないけれど、前日にセミを食べている人をテレビで見て、その人がセミはえびの味に似ていると言っていたから、それに感化されてしまったのだ。えびはえびの味だ。それは疑いようがない。僕はえびの味の中に、せみの味を期待したのだろう。

 だって、せみとえびは韻が踏めるから因がある。これは思いつきの駄洒落を含んでいてくだらないけれど、事実そうなのだ。きっとせみとえびはどこかの先祖で繋がっている。これこそ疑いようのない事実だ。

 そういう意味では、幼馴染のえりちゃんも、せみやえびと繋がっている。だから僕は好きなのだろう。昨日食べたえびは、茹でる時に一気に赤くなった。