桜色の鱗

 深海で眠っていた。まぶたが重くてあがらないのはそのせいだ。昨日は砂糖のたっぷりのホットミルクを飲んだから、それでいつもより眠りが深かったのだろう。身体にまとわりついた泡をゆすって、久しぶりに水中で呼吸をした。

 いつかの人魚は陸に上がって、いまは渋谷109でショップ店員をしている。彼女の鱗は剥がれ落ちて、その下から出てきたのはすらっとした脚だった。彼女は高いハイヒールを履いて、都会のアスファルトを音を立てながら歩く。

 深海で眠っていたのは、人魚だった頃の思い出がどうしても忘れられないからだ。勝手に浮き上がってくる身体をどのように沈めればいいのだろう。

 母の結婚指輪を捨ててしまった日のこと、桜色だった鱗がくすんだ緑に変わってしまった。指輪には大きな真珠がついていた。渋谷109で真珠の指輪は売っているだろうか?

コウキくん

 水道の元栓を閉め忘れて家を出てしまったのは、コウキくんが夢に出てきたからだけど、夢の中のコウキくんは現実のコウキくんよりなで肩だったので、それで気になって水道の元栓のことをすっかり忘れてしまったのだと思う。節約をはじめようとして一週間ばかりが過ぎ、ということはつまり、節約ができないまま一週間が過ぎたということなのだけど、その間、わたしはタカシくんに振られた。味噌汁の味が原因だった、といえばそれらしいけど、そういうわけではなくて、なんとなく飽きたから別れようと言われたのだ。そんなことを言われたものだから、三日間熱が出てしまって、寝込んでいると、コウキくんの夢を見るようになった。

 コウキくんは高校の時の同級生で、いまは何をしているのかよく知らないけど、この前、総武線の車内で見かけて、その時の彼は割といかり肩をしていたのに、夢の中のコウキくんはなで肩だった。そうすると、現実のコウキくんよりもかっこよく見えて、というか、夢の中に出てきた彼が本当にコウキくんだったのかどうかはわからないけど、わたしはなで肩の彼をコウキくんだと思ったのだから、コウキくんなのだった。

 そういえば、タカシくんもなで肩だったけど、どうしてわたしはなで肩の人が好きなのか。やっぱり優しそうな感じがするからだろうか。コウキくんは高校の時、生徒会長をやっていて、校内のイジメを無くそうと頑張っていた。だから、きっとなで肩になったのだろう。

テントウムシの沼

 三年越しに届いた手紙の封を開けようとしたら、左手の甲をテントウムシがよじ登っていたので、反対の手でそれをデコピンすると、おしっこみたいなやつを引っ掛けられた。手紙は差し出し人がわからなかったけど、たぶん沼の近くに住んでいる大神さんからの手紙に違いなかった。沼には鎌倉時代の落ち武者の骸骨が埋まっているという噂があって、隣の家の浩二くんは沼で落ち武者の幽霊を見たというのだから、たぶん本当なのだろう。浩二くんは大神さんのところの娘さんと駆け落ちしてから、未だ行方がわかっていない。あれは三年前のことだ。

 テントウムシは落ち武者のことなんて知らないものだから、あの沼に飛んで行ったとしても別段困らないだろう。手紙は果たして大神さんから届いたものだった。前略。ということは何かを省略したのだろうけど、沼には季節などないのだから、いったい何の挨拶を省略したというのだろう。テントウムシは床でひっくり返ったまま、空を仰ぐようだ。ずっと、そのままなのだ。

−−わたしの娘は行ってしまったのですね。あなたにそれを聞くのは酷なことだったかもしれません。だって、あなたはわたしの娘の息子なのですから。わたしは最近、このように思うのです。彼らは沼の中にいるのではないかと。そう、そう思えるようになったのです。きっと、そうなのです。彼らはずっと、そのままなのです。

アヤとシュウちゃん

 その家には電子レンジがなかったから、せっかく買った冷凍食品を温めることができなくて、それはシュウちゃんは知っていたことだけど、アヤはこの家をまだよく知っているわけではなかったから、間違ったという認識もないまま、冷凍パスタを買ってしまったのだった。

 窓を開けると涼しい風が吹いてきて、ふわっと揺れる髪を首元に感じながら、アヤはベランダに出た。洗濯物を取り込もうとして、今朝干したシュウちゃんのTシャツに触れると、まだ少し湿り気があってダメだった。空は青く、こんなにも陽が照っているというのに不思議だなとアヤは思ったが、それはアヤが勘違いしているだけだった。今朝干したTシャツ、というのはアヤが勝手にそう思い込んでいるだけで、本当はさっき干したばっかりなのだ。アヤは特別な障害を抱えているわけではない。ただ忘れっぽいだけだ。

 シュウちゃんはアヤが買ってきた冷凍パスタをどのようにして食べようかと思案していたが、パッケージに書いてある説明書きを何度読んでも、電子レンジを使わずに温める方法など書いてなかった。何の手がかりもないまま、しかし、途方に暮れるわけにもいかず、とりあえず日没までには答えを出そうとシュウちゃんは考えていた。空はまだ青いのだから焦ることはない。きっといい答えが見つかるだろう。

 どこかの家からピアノの音が漏れて聞こえてくる。たどたどしく、決して上手だとは言えないけれど、不思議なことに間違えて止まることはない。アヤはピアノを弾いているのが女の子であればいいなと思い、それを部屋の中のシュウちゃんに伝えると、シュウちゃんはうなずいて、きっとアヤの想像している通りの女の子だと言う。

 空はまだ青い。きっとアヤの想像している通りの女の子になるだろう。

阿佐ヶ谷の赤鬼

 一寸法師がやってきてあなたは鬼だというものだから、わたしは鬼なのかと妙に納得してしまって、しかし、打ち出の小槌など持っていないのだから、やっぱり違うとも思ったのだけど、果たしてわたしは鬼だった。鬼は六畳一間の部屋に住んでいるものなのか。しかも阿佐ヶ谷で。とはいえ、一寸法師がそう言うのだからそうなのだろう。果たしてわたしは鬼だった。

 鬼には角が生えているものだから、わたしにもそんなものがあるのかと思って、頭に触れてみたら角とは言えないまでも、たしかに吹き出物のような何かが、あった。シャンプーしてるときには気がつかなかったのに、不思議なものだ。あると思えばあるもので、ないと思ったらなくなってしまうのだ。触ったらちょっと痛いけど、例えば成長痛みたいなものだと思えば愛しいものだ。いつかは母鬼のようにちゃんと立派な角になるのだろうか。

 窓の隙間から入ったのだという一寸法師を、何故かわたしは昔から知っているような気がした。そういえば、顔がどことなくライリーに似ている。ライリーはわたしが小学生のときに飼っていた犬の名前だ。そしてライリーの顔は、近所の雅治くんともよく似ているのだった。

 雅治くんも東京で働いているらしいけど、それは誰から聞いたのだったか。近所に住んでいたということは、彼もやっぱり鬼なのだろうか。

 一寸法師が打ち出の小槌で大きくなるのは覚えているけれど、彼が一寸であったところの理由がいつまでたっても思い出せない。

浩子ちゃん

 ジェニファーは人形らしい格好をしているからそんな名前で呼ばれているけれど、実は日本人とアメリカ人のハーフで、本名は浩子だ。自分ではとくにジェニファーという名前が気に入っているわけではないのに、みんながそう呼ぶからそれで定着している。人形らしい格好というのは、彼女のおばさんの趣味で、ジェニファーはこのおばさんが昔からあまり好きではない。でも、ジェニファーはおばさんに育てられているから文句は言えない。ジェニファーの両親は、彼女がまだ小さい時に不幸な事故で亡くなってしまった。

 ハーフだと言うと(最近では混血のことをダブルって言ったりするらしいけど)、英語が得意だと思われがちだけど、彼女の場合はとくにそうではない。ジェニファーは川崎生まれ川崎育ちだし、しかも、外国人の血であるところの父親はとっくに亡くなって、日本人のおばさんに育てられたのだから、それは当然のことである。とはいえ、純日本人(この言い方が正しいかどうかは別にしてここではわかりやすいからこう言う)よりは、出来るかもしれない。疑うべくもなく彼女の父親はアメリカ人なのだ。

 ちなみに、浩子という名前をつけたのは父親のほうだ。かつて仕事で日本にきていた父親の初めての恋人が、浩子という名前だったのだ。そんな人の名前を娘につけるのは正直どうかとも思うのだが、ジェニファーには浩子という名前が確かによく似合う。浩子は今年十四になる。

給食後の掃除

 小学生たちは頭に三角巾をして掃除をしていたのだが、一部の彼らは掃除なんて面倒だから適当にやればいいやと思っていて、教室に半田先生もいないものだから、ますます彼らは適当にやるようになって、それを見かねた一部の彼らがちゃんとやってよと金切り声をあげるのだが(そういうのはたいてい女子だ)、その声のおかげと言うべきか、そのせいだと言うべきか、ついに隣のクラスの横田先生が我慢ならなくなって、3年2組の教室に入ったところで、掃除の時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、そのチャイムを合図に彼らは一斉に三角巾を外した。

 そのとき半田先生が何をやっていたかと言うと、彼は印刷室で学級新聞を印刷していたのだったが、コピー機の不良か彼の操作ミスか、A4の原稿を拡大コピーしてA3にするつもりが、A4の原稿をA3の紙にそのままの大きさで印刷してしまい、へんてこなサイズの学級新聞が刷り上がりつつあるのにもかかわらず、彼はそれに気づかず、明日の給食のメニューがなんだったかなどと考えていたのだった。

 給食室では、今日の給食の残飯を、おばさんたちが処理していたが、彼女たちの一部は耳が遠いから、掃除の時間の終わりを告げるチャイムは聞こえない。その中の一人には横田先生のクラスに通う息子をもつお母さんがいて、そういうわけで彼女は横田先生のことはよく知っている。横田先生がこの秋結婚することも、給食室のおばさんの中で、彼女が唯一知っているのだった。