微笑と妄執

 芳昭が荒廃した部落の中を歩いていていると、不意に袈裟の袖を引き寄せる者がおりました。振り向き見れば、そこにはまだ五つか六つの童どもが、物欲しげな顔で芳昭を見つめております。

「法師や、法師や」

 童の中で一番大きな女童がか細い声で芳昭を呼びました。苧麻山藍の質素な一衣を着て、下下はございません。背丈はちょうど芳昭の半分程で、烏羽玉の黒き髪は絹のように細長く、栲綱の白く滑らかな肌に煤のような黒いほこりを付けております。蓋し、この童どもの姉さまなのでございましょう。その気丈な娘が袈裟の袖を掴み、哀願するような上目遣いで芳昭を見つつ呼ぶのでございます。

 芳昭は娘の面をちらとだけ見ると、そのまま振り向き直し、また枯れた部落の中を歩き出してしまいました。その足取りは迷いを知らず、一つの道をただ真直ぐ進んでゆきます。芳昭が童どもの話に聞く耳を持つ様子は微塵もございません。彼は道に転がる石になど興味が無いのでございます。或は、もう既に誰のことも見えてはおらぬのでございましょう。

「法師や、法師や」

 それでも健気な女童は芳昭を追いかけて袈裟の袖を掴みます。今度は他の童どもも芳昭に群がって彼の行く手を塞ぎ、彼を囲んでしまいます。これでは芳昭も道を真直ぐ進むことはできません。道に転がる石を退かさなければならないのでございます。

 芳昭は渋々下を向くと、大儀そうに娘の面を見ました。

 娘もまた芳昭を見つめております。その眼差しはいじらしさの中に鋭さを秘め、へつらうことを知りません。芳昭を射竦めてしまうほど、清らかな瞳をしているのでございます。

 芳昭はその黒目に魅せられてしまいそうになって、思わず目を背けました。そうして、暫くの間、黙ったままでおりますと、

「法師や……」と娘が芳昭の顔を覗き込むようにして、不安げに声を掛けるのです。

 娘の白い玉のような頬が、芳昭の目の中に写り込みます。すると、どういうわけか、じっとりとした脂汗が小額から滲み出てくるのでございます。

「なんぞや」芳昭は身体の奥のほうから込み上げてくる何かを押し殺すようにして、ぶっきらぼうに申しました。目は背けたまま、頑なに娘を見ようとしません。重たい汗が頬を伝ってふしだらに落ちてゆきます。

 童どもは芳昭の声を聞くと、嬉しそうに微笑み合いました。芳昭の周囲一面に、五色の華が眩しいほどに咲き香ります。そのあどけない光の粒たちは、芳昭の目の微かな空白に否応なく入り込み、燦然と輝いておりました。

「己ら、なんぞや。吾は行人なれば、徒人なり。然るから、退け」芳昭は苛立ちを抑えきれなくなって、吐き捨てるようにして怒鳴りました。

 すると、童どもは弾かれたように仰け反って、目をまんまるにさせて驚くのでございます。空白を埋める光の粒は瞬く間に消え、閑散とした部落を彩る五色の華は萎えてゆきます、幾人かの童はいまにも泣き出しそうな顔をして、姉さまの後ろに隠れ込みます。ところが、その姉童ですら、怯え震えてしまってるのです。

 芳昭は掴まれていた袖を強引に奪い返すと、童どもを押しのけて、行く手に開ける真直ぐな道を歩き出そうといたしました。

 そうして、一足二足踏み出したところで、

「法師や、聞こし召せ。吾子の父は物病みになりて、わづらいたり」

 後ろから女童の消え入りそうな声が追い縋ってくるのです。

 しかし、芳昭は構わずさっさと歩き続けます、彼は道に転がる石になど興味が無いのでございます。崇高なる寂滅、涅槃それだけを希求しておるのでございます。

「法師や、助け給へ。法師や、助け給へ」

 それでもひた向きな女童は、どうにか芳昭を引き留めようとするのです。彼を執拗に追いかけて、決して逸することはございません。

「法師や、助け給へ。法師や、助け給へ」

 童どもは屈すること無く幾度も甲高い声を上げ続けます。

「法師や、助け給へ。法師や、助け給へ」

 覚えず芳昭は立ち止まりました。何か遣り切れぬ情念が彼をそうさせたのでございます。そしてそれから茫然と佇立して、暫時そのままでおりました。童どもが呼び掛けても動ずる気配はございません。ただじっとして、しどけない汗を滴らせているだけなのでございます。

「如何せむ……」芳昭は我知らず微かに呟きます。それは溜息と入り混じって淀み、彼の中だけを静かにたゆたうのでございます。然れどそれはおぼつかず、何処にも糸口などございません。彼は、崇高なる寂滅への道と己の底から沸き立つ何かの狭間で、押さえつけられたように佇立しているしかないのでございます。

「心悪しきなれや」女童は微動だにしない芳昭を案じて、躊躇いがちに問いかけました。

 すると、芳昭は弾かれたようにはっと我に返って、咄嗟に振り向きます。そしてじろりと童どもを嚇すように睨め付けたかと思えば、

「己ら、吾は如何にかすべき」と平静と申すのでございます。

 童どもは、芳昭のゆくりない言葉にきょとんとして、呆けたように立ちすくみます。口をあんぐりさせたまま、疑りの目を彼に向けております。

「如何や仰せし……」姉童は芳昭の険しい顔面を窺いながら、おじおじと問い掛けます。

「吾は如何にかすべき、とぞ打ち言いし」芳昭は厳めしい面を牢固として崩さぬまま、淡々と申します。

 童どもは耳を澄まして彼の言葉を聞いておりましたが、それでも何か釈然とせず、尚も訝しげに彼を見つめております。

「法師や、吾子の父は物病みになりてわづらいたり。父が働かれねば、吾子らは食はれず。然れども、父の病は無下におこたらず。ひにけに重るばかりよ……。然るから、何とぞ、何とぞ修法ものし給へ」

 聡明な娘は縋り付くように申します。楚々とした明眸が、上目がちに芳昭を見つめるのです。

 すると、芳昭は竟に汗みどろになります。細孔という細孔から苦々しきものが沸き出てくるのです。そしてその滴る汗雫は頽廃した部落の地をひっそりひたひたと濡らしてゆきます。溢れ出すものは止まることを知らず、のべつ溢れ出すだけでございます。

「げにや……。然もあらば、肯んずべし」芳昭はそのてらてらとした面をなおざりにしたまま、粛々と申します。

 童どもは暫くもの問いたげな面をさせておりましたが、ようやく芳昭に気を許すと、口元を綻ばせて微笑み合いました。五色の華が先ほどよりも生彩に咲き香ります。その無垢で豊潤な光の粒たちは、道の上に亘る空を埋め尽くすかのように煌煌と瞬くのでございます。

「あな嬉しや、あな嬉しや」

 姉童もいとけない笑みを覗かせております。玉の頬がうっすらと紅潮して、桜桃の蕾みのように郁郁たる香を放つのです。

「吾を己らの家居へとくとく相具せ」芳昭はその玄燁に堪り兼ねて目を覆い、邪険に申しました。如何せん疎ましい汗が吹き出しては土色の肌膚を伝って流れ落ちてゆきます。

「うべしこそ、いでものすべし」

 女童が弟妹どもと、ただ独り煩悶する客僧とを引き連れて、部落に在るこの一路を逸れてゆきます。もうこの途の上には誰もおりません。ただ先の沼沢に芙蓉の華が咲いておるだけでございます。

 

(2011年7月/加筆修正2015年4月3日)