カフカの急須

 一週間前にカフカが亡くなってからというもの僕は急須でまともにお茶すら淹れることができなくなった。いつでも急須を擦ればカフカが注ぎ口から出てきてくれると思っていたし、事実、この十数年間はそうして一緒に暮らしてきたんだ。ひきこもりがちな僕にとって、カフカは唯一の友達だったし、いろいろなことを教えてくれる先生のような存在だった。ほんの一ヶ月前だって、カフカは僕にドの音とラの音の違いを丁寧に教えてくれたし、僕らは熱くサカナクションの音楽について語り合ったものだった。この一週間、僕は何にもしたくなくなって、いや、その前から何もしたくはなかったんだけど、いっそう何もしたくなくなって、ベッドの上で急須を愛おしそうに擦り続けていた。

 カフカの急須は僕が5歳になった頃に伯母さんから貰ったものだった。赤茶色の、イオンとかで売っていそうなありふれた急須で、注ぎ口が細く、妙に頼りなかった。あの頃、僕はまだ小さかったから、お茶は自分で淹れることができなくて、伯母さんか、一階の奥の部屋にいて動かないおばあちゃんに、代わりに淹れてもらっていた。急須で淹れたお茶はいつも苦くて、僕はあまり好きではなかった。でも、カフカはお茶を淹れる時に注がれるお湯がシャワーのようで気持ちがいいと言っていたので、僕はたいして好きでもないお茶を二日に一回は必ず淹れてもらうことにしていた。

「きっちゃん、今日もお茶淹れるんかいな」伯母さんはそんなことを言って呆れ顔を見せたものだった。伯母さんは、僕が"清斗"という名前だから、僕のことを"きっちゃん"と呼ぶのだった。そんなふうに呼ぶのは、僕の知っている限り、伯母さんだけだった。

「うん、お茶淹れてほしいんじゃ、ぼく」

「でも、きっちゃん、ココアとかのほうがいいんでねえの、ほんとは」

「ううん、違うの、お茶がいいんじゃ」

 はいはい、と言って伯母さんは呆れ顔のまま僕にお茶を淹れてくれた。お茶は僕の湯飲み茶碗に注がれた。急須の中のお茶が全て注がれると、カフカが籠った声で、あ〜気持ちよかったあと言った。僕はその、カフカの間抜けな言葉が好きだった。

 僕とカフカはそうやって一緒に暮らしてきたのだった。僕は小学校を卒業すると自分でお茶を淹れることができるようになって、それからはカフカと遊ぶことに夢中になった。カフカレーシングゲームが得意だった。マリオカートなんかは中学校の誰よりも上手だった。

 でも別に、カフカマリオカートが好きだというわけではなかった。彼は仮面ライダーが好きだった。僕がTUTAYAでDVDを借りられるようになると、仮面ライダーV3のDVDを借りてきて欲しいと毎晩のように頼んできた。借りてきてやると、一晩中、それを飽きずに観ているものだから、僕もだんだん詳しくなってきてしまって、V3の動きはもちろんのこと、怪人の動きすらだいたい真似できるようになってしまった。

 その日も、カフカ仮面ライダーごっこをしていたのだった。カフカがV3で、僕はドリルモグラだった。僕は一生懸命ドリルモグラになりきって、純子さんに求婚した。純子さんは帽子掛けだった。そして、結婚式がどうの指輪がどうのという件があって、V3とドリルモグラは闘った。本当はV3反転キックでドリルモグラをやっつけることになっていたのだけど、その日、V3はキックを外した。カフカにしては珍しい失態だった。カフカは恥ずかしさが頂点に達して、泡を吹いて死んでしまった。正義の味方がいなくなった世界で、純子さんはドリルモグラと結婚させられてしまった。

「なあ、きっちゃん、夜遅くにお茶飲むから眠れなくなるんよ」僕が最近眠れないということを正直に話すと、伯母さんはそう言った。

「それからな、あんましお部屋に籠ってたらいかんよ。お饅頭みたいな身体になってしまうよ。そや、お饅頭食べる? 伯母さんのとこに松誠堂のお饅頭あるから」

 こんなことでベッドを下りてやるものかと思っていたが、気がつくと伯母さんの部屋でお饅頭を食べていた。しかも、片手には湯飲み茶碗を持っていて、カフカの急須で淹れたお茶を飲んでしまっていた。

 お茶は昔ほど苦いとは思わなかった。本当のことを言えば、僕は苦いお茶が飲みたかった。でも、僕はもう苦いお茶を飲むことはできないのだ。少なくとも、この急須で淹れた苦いお茶は。

 急に悲しくなって下を向いていると、伯母さんがもう一つお饅頭をくれた。正直、僕はもうお饅頭はいらなかったのだけど、人の厚意は無下にしてはいけないとおばあちゃんに教わっていたので、無理をしてでも食べてみた。歯と歯の隙間に小豆の皮が挟まって、それは爪楊枝をつかってもなかなか取ることが出来なかった。

 翌日、僕は仮面ライダーV3のフィギアをベッドの上に載せて、ガムテープを丸めて作った怪人と闘わせて一日を過ごした。ガムテープ怪人は粘着攻撃でV3を苦しめたが、最終的にはV3が反転キックをきめて、怪人をやっつけてしまった。正義の味方が復活した世界で、今度こそ純子さんは怪人と結婚させられずに済んだのだった。

 

(2015年4月4日)