赤点の経験

 底抜けに明るい立花さんの背後には、数式の書かれた黒板があって、その端っこに描かれてあるドラえもんだかの落書きは、クラスの誰かが描いたものなのだろうけど、大木先生はそのことをとくに追求しないし、とくに注目するほどのものではなかった。クラスのみんなの視線を一挙に受けて、立花さんは緊張しているらしいが、そもそも彼女がどうして黒板の前に立っているのか、覚えている者は誰もいない。立花さんが今日からこのクラスの一員になる転校生であったなら、こういう状況も納得がいくものだが、立花さんは転校生などではない。いや、誰もが立花さんの立場になって考えてみれば、あるいはこの状況も納得がいくものなのだが、このクラスにそのような団結力はない。大木先生が生徒の一人と不倫しているなんて、そんな噂も流れたことはない。

 立花さんは数式の答えを解くために黒板の前に立ったのだが、彼女は数式の答えがわからなかった。だから、そのことを伝えようとして、それでつい大木先生との不倫を打ち明けてしまったのである。大木先生とは二年生のときからそういう関係にあるが、大木先生には奥さんもお子さんもいるから不倫なのだ、と。

 しかし、その告白がクラスのみんなにとって、何になるというのだ。クラス委員長の根本くんの両親はお父さんの不倫が原因で離婚してしまった。とはいえ、根本くんはそのことを当の昔に乗り越えてしまっているのだ。いまさら、立花さんと大木先生が不倫しているなんて知らされたところで、彼にはなんの感慨も湧いてこないだろう。そして、根本くんの想いは、クラス中に伝染するのだ。

 ドラえもんの落書きを描いたのは、大森さんの隣の席の小林くんだった。別に意味はないのに、ドラえもんを描いてしまうのが彼の癖だ。誰かに描き方を教わったわけではないのに、みんな同じようなドラえもんが描けるけれど、彼のドラえもんもそんなドラえもんだ。彼は数学で二度赤点を経験している。

 立花さんの背後の数式を大森さんはノートに写していたけれど、彼女はこの数式の解法を前の学校ですでに習っていた。彼女は四ヶ月前に県外の学校から転校してきたので、立花さんのいまの状況をなんとなくだが、理解できる。だからだろうか、そのためやけに小林くんの描いたドラえもんの顔が気にさわった。ドラえもんの目はもう少し大きいはずだ。いや、配置がそもそもおかしいのか。