抱擁を交わしたそばから林檎は爛れ、長針が短針を通り越す。あとに残った淡い香は、ホットミルクに溶かされて、白熱灯の光を反射している。いま、彼女はロングコートを脱ぎ捨てて、ベランダの花壇に水をくれる。背中に椎骨が浮き出て、肩甲骨が不気味に上下している。僕はマッチを擦って火を灯し、彼女の背中をじっと見つめる。この角張った背中に、橙色の柔らかな光が揺れている。なあ、これをロマンと言うのだろう?  カサカサ音を立てて吹き過ぎる風が、そっと彼女に耳打ちをする。僕には何も言わないまま、その風は、池の水を震わせる。池?  池は何処にあるか?  この池には昔、大きな鯰がいた。いまはもういない。その鯰はやけに角張っていた。そして、右の髭がやけに短く、ピンと突っ張っていた。僕はその鯰を見た。あの池、そう、あの池の中で。あれがロマンでないと言うのなら、僕はもう、爛れた林檎に触れることを許されないのだ。


(2015年6月16日)