意気地なし

 耳元に忍び込んでくる不快な音のために飛び起きて、ちょうど目の前を不規則な調子で飛んでいる蚊を両手でパチン。潰してしまってからなんだか罪悪感が込み上げてきて遣る瀬なかった。一寸の虫にも五分の魂。それに蚊というのはメスだけがお産の栄養をつけるために血を吸うのだというのだから泣けるじゃないか。掌にこびり付いる潰れた蚊は、まだ生きているらしく、脚がぴくぴく動いている。一思いに息の根を止めてやるのが良いのか、それとも流石にトドメを刺すべきではないのか、わからなかった。いずれにしても蚊は死んでしまうのであり、殺してしまったのはわたしなのだ。こんなことならノーマットを使えばよかった。わたしはズルいから自分が直接手を下したと思わない限りには罪悪感を感じないのだ。

 子どもの頃は蚊を潰すことにとくに抵抗は感じなかったし、むしろ自分の手で蚊を潰すことは愉快なことですらあった。とくに蚊が人の血をたらふく吸っていたりなんかすると、潰した時に掌に血がべったりつくので面白かった。そんなことをしていると母にばっちいから手をちゃんと洗いなさいと言われたけれど、掌についた血は勲章だと思っていたからいつまでたっても洗いにいかなかった。あの頃は、悪魔めいたことも平気でしていて、わざと二の腕を露出して蚊を待ち伏せしたりした。蚊が安心して二の腕を吸っている時に、上から無慈悲な制裁を加えてやる。すると、蚊はなにが起こったかわからないうちにくたばってしまうのだ。掌と二の腕にはべったり勲章のスタンプが押されていて、わたしは可笑しくって仕方がなかった。

 それにしても、昔は腹が黒と白の縞模様の薮蚊が多かったのに、最近は白色のアカイエカが多くて嫌な気分になる、白色の蚊はなんだか、わたしが思う蚊のイメージとはズレているし、しかもこの白色のほうが夜中によく出没するのだ。寝ている時に出没されるのは本当に困る。快眠を邪魔されるのはわたしが尤も憎むことだ。ことによって足の裏なんかを刺されたときには、悔しくて悔しくて涙がでそうになる。でも、痒さが何よりもまず先立ってしまうので泣くことすらできないのだ。足の裏は皮が厚いから掻いても掻いても全然痒みの地点に届かない。それで爪で深く押してみると今度は力強く押しすぎて痛くなってくる。この時ばっかりは蚊が恨めしくって、何としてでもしとめたくなる。そうして、わたしは夜中じゅう血眼になって蚊と格闘したことすらあるのだ。

 まあ、そんなことはさておき、いまは潰してしまった蚊のことを考えよう。掌に潰れた蚊はいまも足をぴくぴく震わせている。どのみち助からないのだから、やっぱり殺してあげるのがいいのではないか? いや、蚊の尊厳、わたしは蚊の尊厳を考えたい。蚊はいま何を考えているのだろうか。わたしを恨んではいないか。いや、恨まれるのは別にいいのだ。そうじゃない。そうじゃなくって、蚊の尊厳を考えたいのだ。こうしている間にも、少しずつ時間が過ぎて、蚊の生命の灯火は尽きようとするのだ。わたしは怖い。わたしは蚊のような不条理の死を遂げたくない。わたしは怖い。しかし、わたしは安心してもいるのだ。蚊を見下ろしている自分がここにいて、わたしが蚊を見下ろしているということに……。

 わたしはテッシュを一枚とって、掌の蚊を柔らかく包み込んだ。そして柔らかく握って、ゴミ箱に放り投げた。掌にはまだ蚊の体液のようなものがこびり付いていた。わたしは汚らしいと思って洗面所に向かった。

 

(2015年5月15日)