溶ける

 タナカさんが廊下にコンタクトレンズを落としてしまったと言うので、僕も一緒に探してあげたのだけれど、その拍子に僕も目の中のコンタクトレンズを落としてしまって、世界の輪郭がぼやけた。しばらくタナカさんと廊下を這いずり回った結果、一旦休憩することにして、ビル一階の喫茶店でコーヒーを飲むことにした。喫茶店に向かう途中、何人もの知り合いとすれ違ったような気がしたけれど、僕にはみんなジャガイモにしか見えなかった。

「わたし、角砂糖をコーヒーの中に入れるのが好きなんですよ」

 喫茶店でホットコーヒーを頼んだ後、タナカさんが僕に向かってそう言った。タナカさんの顔はぼやけてよくわからなかったけれど、さすがにジャガイモに見えてしまうようなことはなかった。

「角砂糖じゃないと駄目なんですか?」どうでもいいことのような気はしたけれど、なんとなく聞いてみた。

「うん、角砂糖じゃないと駄目。溶ける瞬間がいいんですよ」

 そう言われると、なんとなくわかるような気がした。テーブルの端っこにガラス瓶が置いてあって、よく目を凝らすと、その中に角砂糖が入っているのがわかった。

 ホットコーヒーが運ばれてくると、タナカさんはガラス瓶の中から角砂糖を二つ取り出して、躊躇せずにカップの中に落とした。僕は少し迷ってから、角砂糖を一つだけ取り出して、コーヒーに入れた。カップの中に落ちた角砂糖はコーヒーをじゅわっと吸って、やがてほろほろと崩れて溶けてしまった。

「輪郭、すぐになくなっちゃいますね」僕は言った。

「ええ、でも、」

「でも?」

「輪郭がなくなる瞬間、角砂糖は溜め息をもらすでしょう、それがわたしは好きなの」

 僕は見ることばかりに固執して、砂糖の溜め息を聞き逃していたことを悔やんだ。そして、ガラス瓶の中からもう一つ角砂糖を取り出して、慎重にカップの中に沈めた。角砂糖は崩れて輪郭を失うとき、確かに短い溜め息をもらした。それはとても甘い匂いのする溜め息だった。

「あの、僕らも溜め息ついてみませんか?」

 喫茶店を出るとき、僕はタナカさんにそう提案してみた。

「いいですね。じゃあ、コンタクトも全部外しちゃいましょうか」そう言って、タナカさんは片目に残ったコンタクトレンズを外した。それに倣って僕も残りのコンタクトレンズを外してみせると、じゅわっと世界の輪郭が溶け出して、足がふわっと宙に浮かび上がった。空中でついた溜め息は白くて軽やかな湯気となり、しばらくの間、宙に揺らめき続けていた。

 

(2015年5月6日)