優しい不協和音のために

 実を言うと僕はアルバイト先の同僚であるナカシマさんに恋をしている。ナカシマさんはトシ子ちゃんのお母さんだ。トシ子ちゃんは同じ高校の同級生で、女子テニス部に所属している。先月、トシ子ちゃんは男子テニス部のタケモト先輩と別れたらしい。トシ子ちゃんの友達のヤナセガワさんが僕の友達のモリヤマくんに話して、僕はモリヤマくんからその話を聞いた。お母さんのナカシマさんはおそらくトシ子ちゃんの恋愛事情を知らない。

 アルバイト先では一応ナカシマさんよりも僕のほうが先輩で、彼女は普段僕のことをヒロキくんと呼ぶけれど、仕事のときはヤマシタさんと呼ぶ。とはいえ、所詮はコンビニのバイトだからお互いの名前を呼び合うことはない。休憩の時だけ、僕の名前を呼んでくれることがあるけれど、その時に話すことといったら殆どトシ子ちゃんのことだ。

 前に一度だけ、ナカシマさんとトシ子ちゃんと一緒に夕食を食べにいったことがある。ナカシマさんの車で近所のファミリーレストランに行った。ナカシマさんはトマトクリームスパゲッティを頼み、僕とトシ子ちゃんは目玉焼きハンバーグを頼んだ。端から見れば、僕とトシ子ちゃんは兄妹に見えたかも知れなかった。

「ねえ、ヒロキくん、この子ったら数学のテスト追試になっちゃったんですって」ナカシマさんはグラスに入った水を飲み干すとそう言った。スパゲッティはまだ皿に半分残っていた。

「お母さんやめてよ、恥ずかしい」

「恥ずかしいのはこっちのセリフよ。ねえ、ヒロキくん、よかったら数学教えてあげてくれない?」

 えーいいよー、と言ったのはトシ子ちゃんだ。僕はぎこちなく笑って頷くだけだった。目玉焼きの黄身をつぶすタイミングがよくわからなくて、思うように食事を進めることができなかった。

「それよりヒロキさー、なんでそんなに働いているわけー?」トシ子ちゃんはペーパーナプキンで口を拭いながら言った。

「うーん、欲しいものあるから、一応」

「え、何が欲しいの?」顔を見上げて聞いてきたのはナカシマさんだった。

「……楽器が欲しいんです」

「楽器って何の楽器?」

「決めてません。ギターでもピアノでもいいんですけど……」

 ナカシマさんとトシ子ちゃんは目を見合わせた。僕の言ったことがよくわからなかったらしかった。それは仕方ない。僕にだってよくわからないのだ。それはちょうど僕がナカシマさんにどうして恋をしているのかうまく言えないのと同じことだ。いずれにせよ、僕は楽器を欲しいと思っているし、ナカシマさんに恋をしている。これは疑いようもない事実なのだ。

 その日はレストランを出た後、家まで車で送ってもらって、二人と別れた。二人には話さなかったけれど、もうすぐバイトで稼いだお金が一年前に設定した目標金額を達成する。きっと僕はその貯まったお金で楽器を買うだろう。楽譜は読めないけれど、僕は楽器に優しく触れて音を出してみる。きっと、楽器は優しく歌い出すのだ。

 

(2015年4月30日)