理髪のこと

 髪の毛はずっと近所の床屋さんで切ってもらうことにしているが、一度だけ、美容院に浮気したことがある。一昨年の夏、大宮の街を歩いていたら、美容師にナンパされてついていってしまったのだ。

 美容院は駅から少し離れたところにあった。美容院に着くまでの道で、僕は美容師と何か弾まない会話をしたが、これといって覚えている話題はない。ただ美容師の喋り方が妙に馴れ馴れしくて、少し気後れしたのを覚えている。たかだが10分ほどの道中だったが、足が痛くなって、どんどん歩いていってしまう女の美容師についていくが大変だった。夏の日差しがジリジリと照りつけて、僕の身体から徐々に水分を奪っていった。

 美容院にたどり着くと、美容師が重々しい扉を開けて、僕を中に通した。店内は非常に明るく清潔で、白を基調としていた。奥の壁に大きな鏡が四つ掛けられてあって、その前にしっかりとした革張りのイスが置いてあり、その横に小さなスツールと作業台が置いてある。僕は美容師に案内されて、シャンプーベッドに腰をかけ、髪を洗ってもらった。床屋だと俯く姿勢で髪を洗ってもらうので、仰向けで髪を洗ってもらうのは新鮮だった。どこか痒いところはございませんかと聞かれて、なんとなく頭頂部が痒いような気もしたが、緊張してそれを言うことはできなかった。シャンプーの香りは、女性とすれ違ったときに残る香りのようだった。

 洗髪が終わると、大きな鏡の前のイスに座らされた。どんなヘアスタイルに致しますかと尋ねられたので、おまかせでと言うと、美容師は承知しましたと言ってオーダー表になりやら書き込みをした。それから僕はケープを被せられて、髪を切られた。美容師の手つきは器用だった。僕の重苦しい髪の毛を何カ所かダッカールというピンで留めて、梳き鋏で手早く動かしていた。美容師はひとりでぺちゃくちゃ喋っていて、僕は曖昧な相づちを打ち続けた。それから僕は微睡んでしまって、はっと気がついた時にはもうすっかり髪は整えられていて、知らぬ間に洗髪からブローまでも終わり、スタイリングも済まされていた。

 僕はその日、わざと遠回りして、街のほうを歩いて家に帰った。別に誰かが振り向くなんてことはなかったが、自分で得意になって、用もないのにブランドショップを数件素見してみたりした。携帯で誰かに連絡でもしてみようかと思ったが、途中で馬鹿馬鹿しくなってやめた。結局、スタイリングしてもらったのに誰にも会わずに帰宅した。

 あれから僕はあの美容院には行っていない。二ヶ月に一度くらいの間隔で近所の床屋に通っている。もしまたナンパされたら美容院に行ってみるかもしれない。僕は今日も大宮の街を歩いている。

 

(2015年4月22日)