ジュンク堂

 文芸雑誌の置かれている棚のところで中年の男の人が立ち読みをしていて、わたしは『すばる』を取り出すことができなかった。仕方が無いので、その棚の後ろにある女性ファッション雑誌のコーナーで『SEDA』と『mina』を読みはじめたが、文芸雑誌の棚の前が空くのをずっと気にしていたため、内容は頭に入ってこなかった。振り返って男の人の様子をちらっと見てみるが、彼はお城の写真集のようなものを読み続けたままで微動だにしない。『すばる』は彼の腹の先にある。わたしはその朱色の背表紙を目の端で捉えて少し苛立った。しかし、声をかけてどいてもらうほどの勇気は生憎もちあわせていなかった。

 少し考えた末、雑誌の棚を離れて、文庫本の棚のところに行ってみることにした。わたしが今日本屋に赴いたのは『すばる』のためだったが、別にそれだけが全てというわけではなくて、なんとなく気に入った本があったら一緒に買ってしまおうと思っていたのだ。わたしは文庫本の棚のところをゆっくり歩いて、平積みされた本の表紙と棚に立てかけられた本の背表紙を見て回った。以前は作家の名前で本を買っていたのだけど、最近は作家の名前だけでなくタイトルとか装丁を見て気に入ったものを買うことにしている。そのほうが結局いいものに出会えるのだ。運命的な出会いと言ってもいいかもしれない。もっとも、わたしは運命的な出会いというのを、例えば恋愛なんかではしたことがないのだけれど。

 鹿島田真希の『冥土めぐり』はまだ読んでいなかったので買うことにした。いまわたしは運命的な出会い云々という話をしたばっかりだけれど、これを買うことに決めたのはもっと単純な理由で、それが芥川賞受賞作だったからだ。わたしは正直なところ賞に弱い。○○賞受賞と帯に書いてあれば、たとえ少し装丁が好みに合わなくても買ってしまう。わたしは文学的にミーハーな女なのだ。そして、わたしの今年の目標は、読み逃していた芥川賞受賞作を全て読破することだった。まだ柳美里の『家族シネマ』も読めていなければ、藤沢周の『ブエノスアイレス午前零時』も読めていない。松村栄子の『至高聖所アバトーン』と李良枝の『由煕』は先月読んだ。由起しげ子の『本の話』や庄野潤三の『プールサイド小景』は死んだ祖父が残したもの学生だった頃に読んだ。

 買うと決めた文庫本をカゴに入れて、少女漫画が置かれている棚のところを一巡し、文芸雑誌の棚のところに戻った。中年の男の人はまだそこに突っ立っていたが、立っている場所が少しだけ横にズレていて、わたしがすぐ隣のところに立ってプレッシャーをかけてやると、彼はさらに横にズレた。朱色の背表紙の『すばる』はわたしのお腹の先にあって、背表紙が蛍光灯の光を反射している。わたしはゆっくり手を伸ばすと、背表紙の頭のところを指にひっかけて『すばる』を取り出した。

 『すばる 5月号』には多和田葉子訳のカフカ『変身(かわりみ)』が掲載されている。わたしは家に帰ると、さっそくそれを音読しはじめた。ここ最近の習慣で、わたしは小説を声に出して読むことにしている。それは黙読するよりも時間がかかってしまうが、声を出して読むことはテクストを紙の上の文字から解放するための重要な作業なのである。文字はわたしが音読することによって確かな音を持ち、わたしと同じ空間の中で踊り出す。グレゴール・ザムザは"ウンゲツィーファー"になり、わたしと彼は同じ地平で手を取り合う。わたしが発する声がわたしのもので、わたしの言葉ではなくなる時、わたしと彼は穏やかな夜空の下で笑いながら語らい、グレーテが弾くヴァイオリンのとともに歌うのだ。

 青白い星々が透けて空が白む時、わたしはグレゴールと別れた。白いテーブルクロスの上に置いた『すばる 5月号』は表紙の端っこが少しだけめくれあがっていた。

 

(2015年4月21日)