鏡の追憶

 鏡は自分が美しいことを知っているが、自分自身の姿を見たことはない。もちろん鏡の真なる姿は誰も見たことはない。人はかつて鏡の真なる姿を見ようと躍起になったものだったが、それ故に鏡を見失ってしまった。鏡が光に晒される時、その時こそ彼は一番美しくなるのだが、同時に彼はまさに見失われてしまう。彼の叫び声を聞いたことがあるか? 私はない。鏡は恐れている。何に? もちろん事実が崩れ去り、自分の存在が根本から覆されることだ。彼は、己、すなわち鏡そのものを見ようとして、己の眼に醜いものが写り込んだらと思うと、狂って叫び出してしまいそうになるのだ!

 私は幼い頃、自分の鼻が低いことをたいそう気にしていた。母親の化粧台の前に座って、三面鏡で自分の顔をつぶさに眺めてみては、理不尽な癇癪をおこした。母は別に私の鼻が人と比べてとくに低いわけではないと言い張ったが、私は他人と比べてどうだというのはどうでもよかった。私は自分の美的判断を満足させたいだけであって、他人の美的判断などという自分の知りえないものについては全く問題にならない。そもそも承認欲求と己の美的満足を混同するのはおかしなことである。いくら誰もがクレオパトラを見て美しいと判断したとしても、当の本人が美しいと思わなければ、彼女は決して満足することはないだろう。もし、彼女が、自分の鼻が高いが故に、自身の容貌に満足しないのだとすれば、彼女は鼻を削ってしまったかもしれない。それで君たちが泣くのだとしても、彼女の美意識の知るところではないのだ

 私の鼻は、私が成長するにつれて少しずつ高くなっていったが、元来女のような見目をしていた私は、中学に入ったときから、上級の女生徒に揶揄われるようになった。例えば、一年の教室から図書館に行くためにはどうしても三年の教室の前を通らなければならず、その度に私は上級の女生徒に呼び止められて、髪を撫でられたり、笑顔になるのを強要されたりした。私は俯いて彼女たちが飽きてしまうのを待ち、実際そうするほかなかったのだが、それが余計に彼女らの心をくすぐり、挙げ句私は図書館に行くことができないということが幾度もあった。もっとも私は必ずしもこうした揶揄いが嫌であったというわけではなかったのだが、しかし、その後すぐに同級の男子生徒から冷やかされて、なんとか弁解しなければならないことは大変なことであった。そしてなにより、私はその頃、同級の一女生徒に好意を寄せており、彼女にこうした一連の出来事を見られてしまうのは恥ずかしくて遣り切れないことであった。

 その女生徒は演劇部に所属していた。前に一度だけ訳あって演劇部の活動教室に行ったことがあるが、その時、彼女は手鏡を手にして、自分の表情を確認していた。それは不思議な光景であった。彼女は鏡に向かって笑顔をつくったり、怒ったような顔をしてみたり、泣きそうな顔をつくってみたりしている。私は演劇部の顧問の先生に用件を話しながら、横目で彼女の顔をじっと見ていた。すると、彼女が急に私の顔を見て、にやっと笑った。私は恥ずかしくなって目をそらしたが、彼女はじっと私を見続けていた。

―—鏡はある女生徒の顔を写していた。彼女は彼に向かって笑ったり怒ったり泣いたりしている。彼女が彼をじっと凝視して、目を見張った時、彼女の黒目に彼の姿が映った。彼は美しかった。ほんの一瞬の出来事であったが、彼は自分の真の姿を初めて目の当たりにした気がした。

 

(2015年4月23日)