道明寺

 風に舞って紙が僕の足下に飛んできた。紙にはマジックインキで、"都合により、暫くお店を休みます 店主"と書いてあった。僕は紙を拾って、土ぼこりを払うと、それを綺麗に折り畳んでズボンのポケットの中に入れた。昼間の日差しが僕をじりじりと焼き付けていた。

 みずほ銀行の前を通り過ぎて、井岸屋に向かっていた。井岸屋は商店街の中にある小さな和菓子屋さんだ。有名なお店というわけではないけれど、職人のおやじさんと女将さんが気さくで、仕事も丁寧だから僕は好んでいた。僕が足立区花畑に引っ越してきて、はじめて中に入ったお店が、この井岸屋だった。

 僕はもともと和菓子はそんなに好きではなかった。どっしりとした餡子の、もそっとした感じが苦手だった。僕のおばあちゃんは、生前、羊羹をよく買ってきた。おばあちゃんが羊羹を買ってくると、それは家族の人数分切り分けられて、四時頃のお茶の時間に出されるのだった。まだ子どもだった僕はそれを食べるのが苦痛だった。そして、何より苦痛だったのは、羊羹で胃が重くなった状態のまま、夕飯を食べなければならないことだった。

 花畑に引っ越してきた時、どうして僕は井岸屋の中に入ろうと思ったのかはよくわからない。ただ引き込まれるように井岸屋の中に入った。そうして入ってしまうと、何かを買わなければならない気がして、道明寺を三つ買ったのだった。桜の季節だから道明寺。そういうことではなくて、ただ単純におすすめを聞いたら道明寺か豆大福だと女将さんが言ったので、僕は道明寺を買ったのだ。

 六畳一間のアパートに帰って食べた道明寺の味は美味しかった。昔は塩漬けされた桜の葉の味があまり好きではなかったけれど、改めて食べてみると、なにより桜の葉のしょっぱさがいいのだと気がついた。僕はその頃少しだけ大人に近づきつつあった。

 花畑に引っ越してきてから、僕は一度だけ女の子と付き合った。その娘は大学の後輩で、サークルが一緒だった。付き合いはじめると、彼女は週に何度か僕のアパートに来ては泊まっていった。彼女は餡子が食べられなかった。だから、僕らはカフェでケーキを食べることが多かった。ケーキを好きな時に食べられるようになると、不思議と生クリームがだんだん重くなってきて、僕はやがてカフェにいってもコーヒーだけを頼むようになった。その後、彼女とは一年付き合って、つまらない喧嘩をして別れた。それから僕はカフェに行かなくなった。

 井岸屋に着くと、シャッターが下りていてお店はやっていなかった。僕はズボンのポケットから拾った張り紙を取り出すと、シャッターの表面にまだ張り付いていたテープを剥がして、折り畳まれた紙をもう一度貼りなおした。"都合により、暫くお店を休みます 店主" 。シャッターの上に貼られた張り紙は風に吹かれて小刻みに震えていた。桜がもう散りはじめていて、僕の頭の上に花びらが舞いながらひらりと落ちてきた。

 

(2015年4月15日)