鷹の爪

 目が悪くなって裸眼では足の爪が切れなくなった。やりようによれば、見ずとも切れるのだろうけれど、僕は心配性だったから目視しなければ爪切りを扱うことができないのだ。それで、僕は足の爪を切らなくなった。一ヶ月もすると、足の爪は伸びきって、先端の部分が内側に巻きはじめた。どこかにぶつけでもして、割れてしまったら嫌だなあと思いながら、僕は頑なに爪を切ることを拒んだ。爪なんかよりも自分の意志が固いんだということを証明しようとしていたのだ。僕の意志が鋼鉄ならば、爪に負けるなんてことは絶対にない。僕の意志は三丁目の頑固おやじよりも頑固だ。

 靴下を履いても爪の所だけが出っ張っていて、靴に足を入れる度に足の先に押さえつけられるような鈍い痛みを感じる。しかし、僕は絶対に負けることはない。いつだって何かを成そうと思えば、痛みは伴われるものである。我慢の先に栄光があって、僕はそれを手に入れようとしているのだ。昔から僕のお母さんは言っていたじゃないか、努力は報われるって。そうさ、僕のこの努力はいつか必ず報われる。足の爪よ、やれるもんならやってみろ。ほら、かかってこい。

 歩く度に足の指の先が痛むので、ぎこちない歩き方になってしまい、気がつくと右へ左へ明け方の酔っぱらいみたいな歩行になってて、そのまま足に導かれて地下鉄に乗っていた。東京メトロ銀座線浅草行き。僕は浅草に行くのだろうか。行きたいのだろうか。浅草に着くと、降車する人の群れに足がもつれて四番出口まで流された。吾妻橋の先にアサヒビールのビルがぼんやり見える。確かに浅草だ。でも、どうして浅草なのかしら。千鳥足の振れ幅はさらに大きくなって、行き交う人にぶつかっては謝り、ぶつかっては謝りをしていると、背広を着た五十代前半くらいの紳士に僕の行くべき場所を教えてくれたので、僕はそこへふらふら向かっていった。

 そこは浅草テロンヤワンという小さなダイニングバーだった。僕は店に入ると、すぐ手前のテーブルにオクイソくんがいるのを発見した。オクイソくんは僕の大学の時の同期で、いまも大学に残って日本文学の研究をしている。主な研究テーマは「永井荷風の助詞の使い方について」。オクイソくんは僕を認めると、手招きをして僕を呼んだ。オクイソくんはお酒をもうずいぶん飲んでいて、酔っぱらっているみたいだった。

「いやあ、カワハラくん、こんなところで奇遇だね」オクイソくんは顔がゆでダコみたいに真っ赤になっていた。「それはそれとして、ちゃんと書いているかい?」

「ああ、もちろんさ。実を言うと、最近はよく筆が進むんだ」そう言って、僕は鞄の中から自分の書いた小説を取り出した。原稿用紙5枚の掌編小説。目が悪くなったせいで足の爪が切れなくなった男の話だ。どうしてオクイソくんに見せようという気になったのかはよくわからなかったけれど、取り出してしまったからには、もうどうしようもなかった。

 オクイソくんは僕の原稿をしげしげ眺めて、5分もかけずに読んでしまうと、欲しくもないのに感想を話し出した。酔っぱらっているわりには、しっかりとした口調で、(そんなつもりではないのかもしれないけれど)僕の作品を扱き下ろした。

「——ところで、この作品は私小説なのかい?」

「違うよ。全くのフィクションさ。だいたい目が悪くなったからといって足の爪が切れなくなる奴が現実の世界にいるわけがないじゃないか」

 オクイソくんは妙だと言うような表情をして、首を傾げた。

「——それから、小説の結びのところだけどね」オクイソくんは僕の言ったことは無視して一人で勝手に話を続けた。「結び、あそこは変えたほうがいいと思うよ。例えばそうだな……、"足の親指の爪には誰かに齧られたような跡が残っていた"とか、そういう感じがいいよ、うん」

 オクイソくんが帰った後も、僕は浅草テロンヤワンで飲み続けていた。しばらくそうしていると、お店のドアが開いて、サカザキさんが入ってきた。サカザキさんは黒のタックワンピースを着ていた。僕が軽く手を振ると、サカザキさんは僕のいるテーブルに腰を下ろした。サカザキさん奇遇だね、と言いかけてやめた。目の前にいる女はサカザキさんではなかったのだ。僕はその時まで自分の視力が乏しいことをすっかり忘れていて、いいかげんな判断をしてしまったのだった。目の前の女は何も言わないでジントニックを飲んでいる。グラスを握る手の、赤い爪がとてもよく目立っていた。

 それから僕らはホテルへ行って身体を重ねた。ベッドの中で抱き合っている時、僕の伸びきった足の爪が彼女のふとももに触れてしまって、そこに小さい傷をつくった。彼女は短く呻くと、掛け布団をめくり僕の足の爪をあらわにした。僕の爪は内側に深く巻き込んで、恥ずかしがっていた。

「ねえ、これすごい伸びてるよ」彼女は自身の脚を僕の頭の方に投げ出して腹這いになり、僕の足の爪をじっくり眺めていた。「切らないの?」

 彼女の足の爪はきっちり切り揃えられていて、赤のペディキュアが塗られていた。

「切らないよ」

「え、なんで」

「僕にもよくわからない」

 そこで会話は途切れてしまった。いつの間にか、僕は眠りに落ちていて、目覚めた時には彼女はもういなかった。足の親指の爪には誰かに齧られたような跡が残っていた。

 

(2015年4月14日)