天井

 天井板の木目が男の人の顔に見えるようになってからというもの、街ですれ違う男の人の顔がうまく認識できなくなった。どんな男の顔を見てみても、それは天井板に張り付いた顔に吸収されて、誰でも等しく同じ顔にしか見えなかった。天井板に男の顔があると気がついたのは、二週間前に大きな風邪を引いた時だった。39度の熱を出して、日中寝込むと、晩には眠れなくなってしまって、朦朧とした意識の中、私はぼうっと天井板を眺めていた。すると、木目の色が濃いことに気がついて、見続けていたら、うねる木目に男の輪郭が見えるようになり、そこからさらに目と鼻と口が現れたのだった。男の顔は誰かに似ていた。思い出そうとして、知ってる男の顔を片っ端から思い浮かべてみたけれど、何かを掴みかけた途端にそれまで思い浮かべた顔たちが溶けて混ざり合って、そのうちに私は眠りの底に沈み込んでしまった。

 風邪がすっかり直ると、リサコから合コンに誘われた。正直なところ私は乗り気じゃなかったのだけれど、断る理由を探すのも面倒だったから、結局行くことにした。私の他にレナも来るらしい。相手の男の人たちは皆そろって銀行マンだった。

 銀行マンの話は退屈だった。私はすぐに帰って寝てしまいたかったが、他のみんなはそれなりに楽しそうだった。私はビール一杯を長々と時間をかけて飲み、ポテトフライばっかりつまんで食べた。シーザーサラダはレナが小皿に取り分けてくれたが、私は全く手をつけなかった。どういう話の流れだか、男たちは年収をにおわせるような自慢話をし始めたので、それこそ私は退屈になって、飲みたくもないのにピーチフィズを頼んで、グラスの中で溶ける氷をじっと眺め続けた。

 二次会はカラオケということになって、私は無理やり理由をつけて帰ってしまおうと思ったのだけれど、リサコに引き止められて、そしたら銀行マンの男の人たちも引き止めてきて、面倒くさいからついていくことにした。男の人たちは一昔前のJ-popをモノマネするような感じで歌い、リサコとレナは最近流行りのアイドルの曲を冗談めかして歌っていた。私は真心ブラザーズの曲を大声で歌いたいような気がしていたが、そうすることはできなくてレベッカの『フレンズ』を歌った。サビのところで、誰からともなくみんなが一緒に歌い出すので、結局選曲した私よりもみんなのほうが真剣に歌っていて、私はとても気が楽だった。

 リサコとレナがそれぞれ銀行マンにお持ち帰りされて、私も残った男の人にお持ち帰りされた。ホテルに入ると、男の人は事を急いた。私は男の人の顔が認識できていなかったから、どうでもいいやと思って、されるがままにしておいた。男の人の顔には黒い靄がかかっていて、まるで影が私を犯しているかのようだった。影のセックスは独りよがりで、荒々しくて、私を置いてけぼりにした。置いてけぼりの私は、ぼんやり天井の白い壁紙を眺めていた。ホテルの天井はのっぺらぼうで、いつまでたっても男の人の顔は浮かんでこなかった。

 翌日、私は会社を休んで、布団に入ったまま天井板に張り付いた男の顔を眺め続けた。男の顔は厳しく、冷たい瞳で私の顔をしっかりと捉えている。どこかで見た事がある顔。わたしは思い出せない。記憶を辿ってその顔を追おうとすればするほど、輪郭がぼやけて見なくなる。記憶というものは不明瞭で且つ分割できない映像か画像なのであり、背景を置き去りにしてある個別のものを思い出すことはできない。見覚えのある男の顔には、見覚えのある背景があるはずで、実を言うとその背景はもうとっくに現れているのだけれど、私は見たくなくてそれを見ないようにしていた。饐えたような匂い、深く刻まれた皺、天井、逞しい腕、木目、扇風機の回る音、畳に垂れる汗。こんな瞳で私を見つめるのはあの男しかいない。

 私はいつの間にかまた眠ってしまっていた。夢の中で、私は布団から出て起き上がると、どこからか脚の長い脚立を持ってきて、布団を跨ぐようにしてそこに立てた。男の顔に触れてやろう、そう思ったのだ。脚立に足をかけて一段一段昇ると、男の顔が少しずつ大きくなっていった。四段目まで昇ったところで男の顔は歪み、輪郭が急にぼやけて、木目が男の顔に見えなくなった。そこにあったのは女性器だった。渦を巻いて歪んだ女性器だった。私は恐る恐る手を伸ばして、天井のあそこに触れてみた。どろっと赤黒い血液が滴って、粘った糸を引き、私の額の上に落ちて流れた。

 そういえば、夢の中の私はもう三ヶ月以上アレがきていない。

 

(2015年4月12日)