ビスク・ドール

 東京の二級河川で魚を釣った陶磁器人形のシモーヌは、黒い靴下の爪先の部分が濡れはじめているのに気がつきはじめていた。バケツに入ったフナやアメリカザリガニは互いに折り重なり合い、腐ったような臭気を辺り一面に放っていた。シモーヌはバケツの中の水をわざと半分にして、蠢く獲物のぬらぬらした粘膜を濃くすると、粘液だらけの濁った液体を掬って、自分の太腿に擦り付けた。液体は、太腿を伝って、ふしだらに下へ流れ落ちていくと、膝下の黒い靴下に塞き止められてやがて吸われた。太腿に残った粘液は何時間経ってもぬらぬらしたまま留まって消えることはなかった。

 黒い靴下のシミがじわじわと土踏まずの方へ迫ってきていたちょうどその時、シモーヌは誰かに肩を叩かれた。振り返ってみると、そこにはマルセルが立っていた。マルセルは白い靴下を履いていて、それは膝の少し上のところまできっちり彼女の太腿を締め付けていた。シモーヌはマルセルが顔を赤らめているのを認めると、釘を打ち込むような視線で彼女の身体を上から下まで二往復してから、こう言った。

「ねえ、あなたちょっとこっちに来なさいよ」

 マルセルはこわごわシモーヌに近づいた。すると、シモーヌは冷ややか瞳をいっそう冷たくしてマルセルを見つめ、不適な笑みを浮かべた。マルセルは腋の下から汗が噴き出しているような気がしたが、彼女もまた陶磁器人形だったので、汗をかくわけもなかった。

「ほら、あなたにはこれあげるわよ」

 シモーヌはバケツの中から一番大きなアメリカザリガニを取り出して、マルセルの胸に押し付けた。マルセルは受け取らなかったが、ザリガニが彼女の白いドレスにしがみつき、彼女の無垢な白に血のような赤黒い色をつけた。ザリガニのドブの臭気がマルセルの香水の匂いと混じる。マルセルは嗚咽を堪えきれなくなった。彼女はむせび泣く。

「とって頂戴、お願いだから、とって頂戴よ」

「でも、あなた、そうしているのが気持ちよくて仕方ないように見えるわよ」

「そんなことはないわ、ねえ、お願いだからとって頂戴よ」

「だって、あなた、こうされたくってわたしの肩を叩いたんでしょう? わたし、知ってるのよ、あなたのこと何もかも」

 そう言うと、シモーヌはマルセルの服からザリガニを無理やり引きはがして、ザリガニを思い切り堤防のコンクリートブロックに打ち付けて殺してしまった。のびたザリガニは瞬く間に干涸びて、ゴマ粒ほどの小さな蟻たちが群がりはじめた。シモーヌの黒い靴下のシミはとうに土踏まずを浸食しきり、いよいよ踵まで迫ってきていた。

「あなたの靴下」とマルセルは言った。「あなたの靴下、濡れているのね」

「ええ、爪先から濡れてきているの。ふくらはぎからも試してみたんんだけど、ダメね、こっちは」

「そうよ、勝手になるんじゃなきゃ、ダメなのよ。でも、そうね、あたしも試してみたいわ。だって、もしかしたら、わたしはふくらはぎからでも大丈夫なのかもしれないじゃない」

 マルセルはバケツの中から粘液を掬って、シモーヌがそうしたように、太腿に擦り付けた。そして、シモーヌがまたそうであったように、液体は、太腿にを伝ってゆっくり下に流れ落ちると、今度は膝下の白い靴下に塞き止められて、しかしただ吸われるのではなく、そこを起点として靴下を浸食しはじめた。マルセルは思わず顔が綻んでしまう。

「ねえ、見たかしら、ほら、あたしはふくらはぎからでも大丈夫なのよ。わたしのほうは踝の方に迫ってきているのね」

「なによ、あなたは爪先は濡れてないくせに。上から下がいいのか、下から上がいいのか、そんなことは決まって無いわ。だって全部濡れてしまえば何だって一緒じゃないの」

 そう言って、シモーヌは唾を飛ばした。マルセルは飛んでくる唾に顔をしかめ、しかし、唇に付着したシモーヌの唾液をそっと舌で舐めとった。甘くてドブ臭い。白い靴下のシミが踝のところまでを浸食しきって、踵に迫りはじめている。

「ねえ、このシミが踵を濡らしてしまったら、あたしたちどうなっちゃうのかしら」マルセルはか細い声でそう言った。

「そりゃあ、このバケツの中のフナとザリガニみたいになっちゃうわよ」

「それは……」マルセルは怖くなった。バケツの中を覗いてみると、今にも窒息しそうなフナとアメリカザリガニが狂ったようにのたうち回っていた。

「それは、気持ちがいいってことよ」シモーヌは勝ち誇ったように言った。

——気持ちがいい……。

 マルセルは恥ずかしくなって下を向いた。彼女は——そしてシモーヌも、先ほどからシミが熱を帯びているのを確かに感じ取っていた。太腿も熱く、胸も熱い。頭がクラクラして、このままコンクリートブロックの上に倒れ込んでしまいそうだった。外の世界が色を失い、みるみるうちにぼやけてゆく。一切の全てが溶け出し、爛れて、腐りはじめていた。

「ドブ臭いね」マルセルは呟いた。

「ドブ臭いわね」シモーヌも呟いた。

 陶磁器人形の少女たちはその場に倒れ込んで、折り重なった。シミで濡れた靴下同士が絡まり、シミが溶け出して全身を浸食してゆく。全てがうやむやになった世界で、二人は吐息を漏らしていた。ドブ臭い悦楽がいつまでも二人を濡らし続けていた。

 

(2015年4月8日)