水槽の中の子ども

 あたし、あんたのオヤジと不倫しているのよとルウ子さんが言ったので、目の前の景色が遠のくかと思われたけれど、別にそんなことにはならなかった。僕の目は先ほどからガトーショコラを食べているルウ子さんの唇を捉えていて、それはたとえ世界が反転したとしても揺らぐことはないのだった。僕はルウ子さんを記録し続ける一台のカメラで、そうであるからは、外部からの指示なしに動くなどできない。いつだってルウ子さんのいる世界が主で、僕という存在は従なのだ。

「でも、あんたのオヤジってケチよね。いつも、ボロくなった靴履いているでしょう。あたしが新しいの買ってあげるって言っても、まだ履けるからとか言っちゃって、ほんと、貧乏臭いったらありゃしない」

 ルウ子さんはそう言って、熱いコーヒーを啜った。コーヒーからはまだ湯気が立っていて、僕の眼のレンズを目に見えないほど小さな水の粒が撫でさすっては蒸発して消えていった。煙たい。ルウ子さんは煙たい女だ。オヤジは、渇いたオヤジだ。

「ねえ、今度は葛西臨海公園まで出掛けてみない? あたし、だだっ広いところが好きなのよ、開放感があって。ほら水族館もあるし。あんた、好きでしょう、水族館」

 僕は頭の中から水族館での記憶を取り出した。そこには、家族に連れられて楽しそうにはしゃぐ小さい女の子が写っていた。女の子は、回遊魚の巨大水槽で泳ぐクロマグロの群れを眺めて、あたし、大きくなったら絶対ここでマグロさんたちと泳ぐと言っていた。その横で、確かに僕のオヤジが高らかに笑っていた。

 暫く考えてから首を縦に振ると、ルウ子さんは満足そうに頷いて、残っていたガトーショコラをぱくりと口に放り込んだ。口角をあげながら咀嚼するルウ子さんが少しだけ幼く見えた。その顔は、マグロさんと泳ぎたがったあの女の子に、どことなく似ているような気がした。

 次の日曜日、僕とルウ子さんは葛西臨海公園に行った。ルウ子さんは、だだっ広いところが好きだとか言っていたが、あれは嘘で、本当は自分が水族館にクロマグロを観にきたかったのだった。葛西臨海水族館の回遊魚の巨大水槽では、クロマグロが突然大量死して、何故か一匹だけが生き残り、その残った一匹がそれこそだだっ広い水槽の中をゆったりと泳いでいた。その姿は物悲しくもあったが、当のクロマグロは恍けたような顔をして、水槽の端から端を行ったり来たりするだけで、涙を流しているわけでもなかった。ルウ子さんは水槽に張り付いてクロマグロが泳ぐ姿を眺めていたが、急に振り向くと、こんなでっかい水槽を独り占めできるなんて贅沢の極みよねと真顔で言ったので、僕は思わず吹き出してしまった。ルウ子さんはまたすぐに振り向き直ってしまったが、僕はいつまでも彼女の背中をこの眼に写し続けていた。

 翌日、オヤジと夕飯を食べながら、なんとなしにテレビを点けてみると、葛西臨海水族館のクロマグロのニュースがやっていた。差し当たってはあの回遊魚の巨大水槽に、アカシュモクザメ二匹と、タカサゴ約五百尾を入れて展示をすることにしたらしい。オヤジは暫く黙ってテレビの画面を見つめていた。そのニュースが終わると、オヤジは箸を置いて、ここの水族館、お前が小さかった時に行ったことがあるんだよと擦れた声で言った。僕はそれには応えず、そういえば最近誰と会ってるの?と思い切って問い掛けてみると、オヤジは大きく口を開けて高らかに笑ってみせた。

 

(2015年4月7日)