スピンクス

 カーナビに従って車を走らせていると、リトアニアに辿り着いて、バルト海に面した街でエライザを拾った。助手席に座ったエライザは基本的に無愛想だったが、頭山の落語を僕が披露してやると、唇の端で少しだけ笑った。時折、彼女は稲穂のような黄金色の髪を搔き上げて短い溜め息をついた。車内にはWinkの『淋しい熱帯魚』が何度もループで流れ続けていた。

 それから僕たちの車は北へ走り続けて、国境を越え、ラトビアに入った。最初はバルト海に沿って走っていたのだが、途中でエライザが、海ばっかり見ているのは気が滅入ると言ったので、内陸の街に入って進んだ。僕が急に方向を変えて、北東に進みはじめるとカーナビがブツブツ文句を言ったが、やがて何も言わなくなった。開け放した窓から乾いた風が吹き込み、僕とエライザの髪を撫でさすって流れていった。『淋しい熱帯魚』は鳴り止まなかった。

「あのね、井上陽水って、娘さんの彼氏に、バルト三国言えますか?って必ず聞くんだって」僕はいつか誰かに聞いた話をそのままエライザに話した。エライザは黙ったままで、煙草を吸いはじめたので、僕は構わず一人で喋り続けた。

バルト三国って言われても日本人はすぐに答えられないからね。しかも、井上陽水に急に聞かれるんだぜ。知ってても、怖くて答えられないでしょ」僕は言いながら、エライザの煙草の匂いを嗅いでいた。僕は自分では煙草を吸わなかったが、煙草の匂いを嗅ぐのは好きだった。五年前に死んだ母も、生前はヘビースモーカーで、縁側で彼女が煙草を吸いはじめると、僕は側に寄って匂いを嗅いだものだった。煙草の匂いを嗅ぐと、僕はいつだって安心出来てしまう。

「でもね、一番下の娘さんが連れてきた彼が、あっさりバルト三国を答えちゃうのよ、ラトビアリトアニアエストニア。なんか、スピンクスの物語みたいでしょう?」

 エライザは尚も何も言わなかった。

「もちろん、井上陽水は答えられなかった人を食べたりはしなかったし、あっさり答えられてしまったことで退治されてしまったわけではないけどね」

 エライザは忌々しそうに煙草の煙りを吐いた。

 仕方がないので、僕はまたはじめから頭山の落語を披露した。今度もエライザは唇の端で少しだけ笑った。僕は満足して、エンジン全開で車を北に向かって走らせた。もうすぐ国境を越えて、エストニアに入るだろう。ヴァルカの国境線では井上陽水があくびをして僕とエライザがやってくるのを今か今かと待ちこがれていた。

 

(2015年4月6日)