ルフラン6号

 瞼を二重に整形したら、人ごみの中から理科教師だけを選び出すことができるようになった。そうしてわかったことには、渋谷駅には理科教師が少なく、新宿駅には理科教師が多いということだった。

 かくいう私も理科教師だった。埼玉にある県立高校で生物の授業を教えている。整形してみたのは、他でもない、そうでもしなければモテないからだった。三ヶ月付き合ってみた元教え子の大学生とは先月別れた。振られたのは私だった。新調したメガネが彼の好みではないという理由で私は振られたのだった。

 新宿のクリニックからの帰り道で、理科教師を見つけたので後をつけてみる。定年間近のおじいちゃん先生といった感じで、背は低く、ヒールを履いた私よりも小さい。おじいちゃん先生は亀のような歩行だったので、調子を合わせるのが難しかったが、四、五メートルほど離れて、一定の間隔を保ち続けた。おじいちゃん先生は一度も振り向かなかった。

 おじいちゃん先生は新宿通りを四谷方面に真直ぐ歩き、マルイの前を通り過ぎると、世界堂のビルの中に入った。私もそれを追って、世界堂のビルに入ると、そこでおじいちゃん先生を見失った。仕方がないから世界堂の中を一通り観て回ることにした。いろいろな画材が所狭しと並べてあって、少し埃臭かった。三階に油画の画材が売っているということで、足は三階に向かっていた。まだ未練が残っていたのかと思って、私には少し意外だった。

 高校三年の夏、私は美大進学を目指していた。御茶ノ水にある美術予備校に通い、毎日のように石膏や静物モチーフを描き続けた。しかし、なかなか思うようには上達しなかった。ある時、予備校内で模擬試験が開催されて、私の描いたデッサンが採点されると、クラスで最も低い点数がつけられたので、私はそこで描くことをやめてしまった。別にプライドが高かったとかそういうわけではないのだけれど、ただ単に向いてないんだろうなと判断して、やめてしまったのだった。結局大学は理科系の私立大学に進学して、生物学を専攻した。大学に入ってからは絵筆を握ることすらしなかった。

 三階からは埃と油が混じったような匂いがした。油絵の具が壁に沢山陳列してあって、壁一面に緩やかなグラデーションをつくっていた。珍しくルフランの絵の具が売っていたので、私はそれを手に取って、しげしげと眺めてみた。ピカソセザンヌがこの絵の具を使っていたのだと思うと、それだけでアルミのチューブが重くずっしりしているように感じる。私はラベルと親指で軽く二度撫でると、チューブを元の棚に戻した。そうして、筆売り場へ行こうとすると、日本画の画材が売っているところにおじいちゃん先生がいた。

「あら、日本画お描きになるんですか?」私の口が勝手に話しかけていた。おじいちゃん先生は振り返って、目をまるくして私を見た。

「ええ、趣味で少々。ところで、えーと、申し訳ないのですが、どちら様で」

「あ、いえ、すみません、ちょっと日本画に興味あって」私の口は簡単に嘘をつく。おじいちゃん先生は妙に納得したというような顔をした。

「そうですか。絵はお描きになられるのですか?」

「昔、少しだけ。でも、いまは描きません」

「それはもったいないですな。なにかと忙しいのでしょうが、こういう趣味はもっとくといいですよ。私くらいの歳になると、こういうことしか楽しみがなくなってくるので」

「そうですね。私も久しぶりに描いてみようかな。すみません、ありがとうございます」

 そう言うと、わたしは軽く会釈をして、その場を離れた。そして、油絵の具が並べられた棚の所へ行くと、ルフランのコバルトブルー6号を取り出して、それだけを買ってビルを後にした。ビルを出るとき、おじいちゃん先生とまた出くわした。おじいちゃん先生は、ボールペンの書き味を試していたが、振り向くと、このペンは透明色が綺麗ですと言って笑った。瞼に二重の深い皺が刻まれていた。

 

(2015年4月5日)