四月二日のエレンディラ

 ウリセスがエレンディラを失った後、僕は電気ポットの中を覗いて、彼女を捜したのだった。エレンディラのテント。電気ポットは一年以上洗ってなかったから、内容器の底がカルキで白くなってた。もちろん、そんなところにエレンディラがいるはずもないし、彼女の、白鯨に似た祖母がいるというわけでもなかった。

「靴下、いつも左右が揃ってないのよね」と僕の母が呟く。靴下の片割れが、マットレスの下に隠れていることを僕は知っていたが、あえてそのことは言わなかった。代わりに、曖昧に笑って二回頷いた。

 僕のマットレスは、エレンディラのベッドの上に敷いてあったものと同じようなものだ。移動しやすいように、折り畳めるようになっていて、それなりの厚みはあるが、軽かった。エレンディラはその上で何度も腰を痛めたわけだけど、僕はこのかたそういったことはない。まあ、それでも僕はショップジャパントゥルースリーパーの紹介をしていれば、それを見ることにしていたし、エレンディラにはオレンジなんかをあげるより、こういう実用的なものをくれてやるほうがいいのではないかと思ったりした。

 万年床からようやく起き上がって、一階のリビングに行くと、包丁で皮をきっちり剥いたリンゴをこっそり食べた。リンゴなんてそのまま齧ればいいものを、わざわざ皮を剥いたというのは、一応それなりの理由があって、しかし、それを話そうとすれば三日分の雨では足りなくなってしまうから、僕はできることなら話したくない。君たちだって、どうせカレーにリンゴを入れる理由をできることなら話したくないと思っているんじゃないだろうか。

 リンゴを食べ終わると、パジャマから外着に着替えて、エル・ロサル・デル・ビレイへ前輪がパンクした自転車で向かった。上院議員のオネシモ・サンチェスに会うためだ。彼は演説会場で、穏やかな海のような声を響かせていた。会場にいた人々は海に溺れかかっていたが、僕は溺れなどしなかった。ちゃんと、浮き輪を用意していて、せいぜい沖に流されてしまうだけだった。

 オネシモ・サンチェスならば、エレンディラの居場所を知っているかもしれない。安直かもしれないが、僕はそのように考えた。ここらで彼ほど事情に通じているものは居なかったし、もしかしたら彼は死を迎えるクリスマスまでに、超自然的な声を聞くことができるようになっていたかもしれないからだ。とにかく、躊躇している暇はなかった。どんな手段を講じてでも、エレンディラに会いたかった。

「渋谷109を横に倒して、サランラップの芯になったそれを転がしてみたら、さぞ愉快でしょうなあ」オネシモ・サンチェスは僕に会うなりそう言った。

「渋谷は坂ばかりだから、結構スピードが出てしまって、目が回ってしまうかもしれないけれど。いや、そんなことよりーー」

 そんなことより、エレンディラの居場所を知っていませんか、そう言おうとして、言えなかった。というのも、僕はすでに目が回ってしまっていて、回教の信者が回り続ける様を見続けた時の、あの、懐かしい感じに陥ってしまっていたのだ。僕は炭酸飲料が苦手でコーラを飲めなかったけれど、だれかに早くコーラの瓶の栓を抜いてもらいたかった。

「トンボが有刺鉄線に止まったら、そいつの目の前で、空に円を描くように人差し指をくるくる回してみな。 ほら、目ぇ回してやんの、こいつ、しかも見ろよ、首かしげてるし」

 いつだったか、トンボを捕まえて、羽根を毟ってしまったことがある。トンボの羽根は人間の子どもの指でも簡単に毟ることができた。トンボは痛いとは言わなかった。その代わりに、尾っぽの先から黄色い粒を出した。僕らはその黄色い粒をトンボの卵と呼んだ。僕らの母も随分前に羽根を失って、そこから僕らは生まれたのだと、僕らは大人になってようやく知ったのだった。

 目を回し続けていると、コンタクトレンズが目の裏側にいってしまいそうだったので、人口涙液を垂らして、混乱を沈めた。オネシモ・サンチェスは彼のテントにある電気ポットからお湯を出すと、コーヒーを一人分淹れて、ちびちび上澄みを啜っていた。ネズミのようにずる賢い顔をしていたが、確かにその瞳は死の運命を見据えているようだった。

「ときに君は昨年の一年間で何匹の蟹を殺したのかな?」

「いいえ、僕は海も川も近くにないところに住んでいるんです。上院議員さんは驚かれるかもしれませんが」

「それはよろしくない。ペラーヨなんかは三日で254匹の蟹を殺してしまったというのに」

「むしろ僕は蟹を育てているくらいなんですよ。僕の住んでいる国では、誰もが蟹を育てているんです。厄介な蟹なのですが、如何せん育てずにはいられないもので」

「君のところは実にけしからんな。蟹は地に降りた瞬間に、それはもう悪魔に等しいのだから」

「ええ、もっともなことです。いやはや、それにしても——」

 僕が言葉を言い終える前に、オネシモ・サンチェスはそっぽを向いて、西へ行ってしまった。僕は一人、幻の砂漠の村に取り残されて、ポケットに入れて持ってきてあった芋けんぴを一本取り出して、奥歯でガリッと噛み締めた。先週の木曜日の朝に食べたスクランブルエッグの味がした。

 

(2015年4月2日)