腹の虫

 三日三晩も腹痛に悩まされて、とうとう近所の薬局に行った。本当は医者に行って診てもらったほうがいいのだろうけど、近所の病院は年増の看護婦さんの態度が悪いので行きたくなかったのだ。ちょうど近所の商店街に小さな薬局があって、そこは気の弱そうなおじさんがやっているので、そこへ行ってみることにした。店頭に漢方薬の名前だろうか、仰々しい漢字の書かれたのぼりが出ていて、実は前から気になっていたのである。

 こんにちはーと、一応声を掛けて店に入ると、薬品の臭気が鼻についた。うまく表現できないが、わたしは咄嗟に正露丸を思い浮かべた。まさにあの臭い。店の奥から店主が出てくるだろうと思ったのだが、しばらく経ってもだれも出て来なかった。仕方が無いので、わたしは店の奥まで行って、すみませんと幾分大きい声で呼び掛けてみた。

「あー、ちょっと待っててー」店の奥から間の抜けた声がした。

「あ、はい……」

 わたしは壁のガラスケースに入った薬品の瓶を眺めながら、その場に突っ立っていた。しばらく待っていると、店の奥で水が勢いよく流れる音がして、母屋の方から店主の白髪頭が覗いた。髪の根本の方が黒いのがなんだか妙だった。

「あ、すいませんね、ちょっとお腹こわしちゃったみたいで」おじさんはメガネを掛けなおしながら言った。薬局のくせにお腹を壊しているのもなんだか妙だった。

「え、あの、わたしもお腹壊しちゃったみたいなんですよ」

「さようですか……そうですね、えと、どのような腹痛で?」

 おじさんの質問に訝しみつつ、わたしは腹痛の状況をなるだけ詳しく述べた。途中で、具体的にどのように痛むか聞かれたけれど、うまく言葉にすることができなかった。言葉を駆使しようとすればするほど横腹が痛んでくるのだった。

「あの、余計なお世話かもしれませんけど、お医者さまに行かれた方が……」おじさんは本当に余計なことを言った。でも、横腹が痛いので怒る気もなれなかった。

「あの、あれ、お腹に効く漢方とかって、あの、ないんですか?」

「ああ、一応あるにはありますよ、桂枝加芍薬大黄湯とか大建中湯とか」

 聞き慣れない硬質な言葉の羅列にいよいよ横腹が激痛に変わってきた。頭がクラクラして、世界が遠のいていくような感じがする。

――その時だった。おじさんが急にメガネを外して、勢いよくわたしの腹を小突いた。すると、その瞬間、わたしの口から何かが飛び出した。突然の展開に気絶しそうになりながらも、落ちたものをしかと認めると、それは小さな甲虫だった。背中が金光りしている六肢の甲虫。それは床の上を這っていた。

「典型的な腹の虫ですね」薬局のおじさんは何事もなかったようにしれっと言った。「ストレス溜めたらいけませんよ」そして何故だか嬉しそうに笑ってから、急に苦しそうな顔をして、お腹が痛くなったので失礼しますと言いのけて母屋へ入って行ってしまった。

 わたしは呆気にとられて身動きがとれないでいたが、床をのそのそと這っている甲虫を眺めていると、急に笑いが込み上げてきた。腹の虫、わたしの口から出てきたのは腹の虫なのだ。そういえば、もう全然お腹は痛くないのだし、むしろこの上なくすっきりとした気持ちなのだ。可笑しい、もう可笑しくてしょうがない。駄目だ。あははははは、あはははははははははは、あはははははははははははははははははははははははははは。

 

(2015年5月12日)